昭和52年09月30日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 これが本当か本当でないかと迷うておる間は大きな信心は出来ません。是が本当だと是をいけば間違いないという確信をもって進めてまいっておりませんと、ちょっとした事が不安になったり心配になったり致します。ただ大きな事を言っておるとか、大きな願いを持っておるというだけではいけません、いわゆる確信を持っての願いであり、確信を持っての小さい願いよりも大きな願い、大きな願いのほうが良いのであります。 
 昨日は生誕祭であのように賑やかにお祭に引き続いてお年寄りの方達が楽しんで頂きました。丁度その半ばでした。秋永先生がやって参りまして今、○○教会から電話がかかってきました。教会宛てに記念祭のご案内を出した。と同時に各教会の信徒会宛にも出した。それが私が知っておりましたら、恐らく文面を変えたであろうと思いますけれども、知らなかった。それをここの信者一般の案内を各信徒会宛てに出したわけです。
 所がその中の内容に合楽の人であってみれば、はあそれ所ではありません、本当にそれどころではありませんと言う所ですけれども、他所の先生が読まれたら何かカチンと来たものがあったのでしょう。それを指摘してその、案内を出しなおされたらどうかと言う事なんです。どう言う事なのかと私聞きましたら、その神定めの地合楽とあるわけです。次に合楽理念の確立を見てと言った様な事が文章の中にある。案内の中にですから合楽のものはもう、本当に間違いのない、神定めの地だと思っていますよね。
 ただ同時に毎日合楽理念の事を聞かせて頂きよりますから、本当に合楽理念こそ絶対の道だ、もう完璧の金光教の信心が、完璧の域にこれによって入るのだと、完璧になったというのではないですよ、これからこの理念を元にして、信心を進めていくなら、完璧に向かってさあ自分が今進んでおる道は本当だろうか間違っておる道ではなかろうか、本当にお徳の頂けれるおかげの頂ける道であろうかと迷いの起こるような事はないとこれだけは絶対だといわれておるわけです
 。ですから合楽の人達の場合は一つ、抵抗どころがはあそれ所じゃありませんと思うて皆さんどうだったでしょうか、皆さん所にも届いた事でしょうけれども、そう受けられただろうと思うのですけれども、他所の教会の先生の場合はそんなわけではいけなかったのですよね。けれども私は合楽だけが神定めの地ではないです。○○教会もやはり矢張り神定めの地なんです。
 いかにも自分があそこがいい、ここがいいとまあ教会を建てられたにしてもです、やはり神ながらに神定めの地というても良いのです。それを合楽の場合はどうでも、合楽にこなければならない、善導寺にも一里例えて、いうと田主丸教会からも一里、そういう所に例えば自分達の意志ではない、神様の御意志で合楽と言う事に定められた。そして後で愈々分かれば分かるほど、とても千年も万年も前からここには、大坪総一郎という人間が合楽で、合楽教会を開設するんだ。
 しかもその合楽は、いうならば人間が愈々助かって行く事の為に、天地自然の働きが愈々全てを、それは億年掛っても丸くせずにはおかんと、言う様な働きがそれをあらわせれる地として、神様が合楽の地をもう昔から選ばれてあったのだと、思わずにはおられない事が次々と私共の周辺にあるわけです。例えば合楽というその地名でもです、も頂くように善導寺、勿体島、椛目、常持そして合楽。
 そういう一つの過程を通っての合楽である。しかも合楽というのは愈々金光教の神髄である所の神も助かり、氏子も立ち行くという、いや助かるというだけではない、その神様と交流するというそこから生みなされてくるもの。それが人間の幸せの土台になるものだ基になるものだ。しかもそれを世界の隅々までも広げようと言う様な大きな、神様の理想がです、ここに実現しようとしておる所だというのですから、しかもそれには一つ一つ裏ずけがあるのですよね。
 合楽の場合は私が自分よがりに、合楽というのはこう言う所なんだ。しかも合楽というのは地名だけれども、合楽理念とこううって出らせて頂くように、合楽という言葉を使わないと、意味を成さないのです。どうも合楽という言葉が、合楽以外の人達には非常に障るらしいのです。合楽は自分方の事ばっかり言うというのが、この前の信徒会の時の話もいうならば合楽理念の内容の話を一時間なんぼに渡ってお話致しましたけれども、合楽理念という言葉を使わなかった。
 そして、聞いてもろうて一番最後に今日聞いてもらった内容、そういう内容が合楽理念の一部ですという風に一番最後に一言申しました位な事。その位に白眼視をしておるわけです。始めから合楽理念というたら他所の人は聞かん。もうそれこそ、カチンとくるだろうというほどに、私はそういう人たちは小さいなこまいなと思うのです。なら、昨日私が、秋永先生からそのことを聞かせて頂いて私の心は一つも動揺しなかった。
 ただ私教会の信徒会宛ての案内を別にいうなら、そんな事をかかなかったでしょう。それは、当り障りのないようにただご案内だけにしたでしょうけれども、知らぬ間に一般信者のと各教会の信徒会のそれが、一緒たくりにそれを出してもんですから、そして愈々神様が強烈にです、合楽理念をそれこそ、中に入って広めるという働きが起こっておるなあと思います。今度の信徒会のことでもそうです。
 今までかつてない一つの雰囲気というものが生まれてきたというのは、そこの教会長の話を芯にしてそれを研修すると言った様な事は、今までかつてなかったのです。ですから結局私に言わせるならば、いうなら現在合楽理念を説くより他にないのですから、それを説きます、それを後でまた研修すると言う事に神様この様にして、白眼視とでも申しましょうか、色眼鏡でみておる人達にでも分からせようとする働きが、中に入って広める働きが起こっておるなあと思うから、私の心の中にはいうなら一つも触らない。
 なら昨日そのことを聞かせて頂いても、秋永先生が半ばにいうて位ですから、先生は心に何かかつんときたわけでしょう。そしてその出来ればもう一遍案内を出しなおせとこういうわけ。そんなこと全然問題じゃない。もうよかがのほっとけばよかがのちまあ申しましたし、それも横着な心でほうからかしておけば良いと言うのではなくて、それが本当だと確信するからです。神定めの地というのが、気に入らんのならそれはあなた方の教会でもやっぱり神定めの地ですよと。
 合楽理念のあの特集号でも、読んでもらったら金光様の先生なら、金光様の信心を頂いておる者なら分かるだろう。合楽よがりのものではないと言う事が、知られんからそう言う事が言われておるのだから。と私は思わせて頂いて、それが一つも私の心に触らんと言う事に、昨日は有り難いと思ったのです。いうならば私が、それだけ大きくなったなあと言う事です。
 そしてなら何事言いよるかというような横着な気持ちではなくて、それが本当だと確信しておるから心に触らない、今日はそこんところを聞いて頂きたいと思ったのです。昨日も遅ででまいりましてから、そこの向こうの先生としては、いうなら親切に言うて下さったのかも知れませんよ。また大変合楽に好意をもって下さっておる教会ですから。私ですら、この位神定めの地とか、合楽理念の確立とかと言った様な事が、私ですらこの位さわっておるのですから、他所の教会じゃもっとさわっておるかも知れませんよ。
 だから案内状を出し直しなさった方がよかですよと、親切で言うて下さったのかも知れません。どちらに致しましても出しなおそうとも思わんし、言い分けしようとも実は思わんのです。それが本当だと確信するからです。確信から生まれて来る所の触らない。そういう心が有り難い心であると同時に大きな心だ。大きな信心というのは、そういう信心を段々大きくしていくと言う事ではなかろうかと思いますよね。
   どうぞ。